『英学の光』
明治学院の教師達があてた英学の光は日本近代化への光でした。特に宣教師たちの優れた言語学的研究と考察は、日本語と英語教育に光を当てました。
(1)日本語研究の部
幕末から明治時代を席巻した和英辞典であり、近代的日本語辞典へと続く道を開いた。国語辞典のなかった日本に、西洋言語学から光を当て現在も参照されている。
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S.R.Brown はヘボン塾とともに明治学院の源流をなすブラウン塾を開いた人であり、新約聖書和訳の委員長である。 先行する1861年Van
Reed『和英商話』はあるものの、本書は外国人による本格的日本語会話書の最初の出版であり、来日後3年という短時日で出版された。日本語は普通の表現と丁寧な表現との2種類が記述され、当時の江戸ことばと、階級・身分による言葉の差を生き生きととらえ、現在読んでも遜色がない。日本語文法の解説との単語集とが付き、この解説が近代言語学(英学)での日本語の分析として、特に動詞論がB.H.チャンブレンやW.G.アストンの日本語考察へと続き、本格的日本語学の成立に影響した。
この会話書は、1862年(文久2)に開設された幕府横浜運上所の横浜英学所で教科書として使われ、1870年(明治3)には横浜修文館で、1873年(明治6)横浜山手のブラウン塾、1875年(明治5)の商法講習所(現一橋大学)の教科書として使われた。
のちにペリー来航時の通訳として活躍するS.W.ウィリアムズが、アメリカン・ボードの宣教師時代に中国から米国に一時帰国し、ニューヨークで片仮名活字を制作させた。この活字は長老教会の書記ラウリーの手を経て上海の美華書館にもたらされた。日本からS. R. ブラウンがColloquial Japanese.の印刷のため上海を訪れた際、この活字が用いられた。
Verbeck はフルベッキと呼ばれ、S.R.Brownと同じく米国オランダ改革派教会の宣教師である。長崎渡来後、長崎洋学所済美館・致遠館の教師として大隈重信・副島種臣等を教え、1872年(明治5)に大学南校の教師から教頭となり、太政官法律顧問となった。1879年より東京一致神学校・明治学院教授として生涯を遂げた。この本は彼が明治学院教授時代に著したものである。
Imbrie(インブリー)はミッション派遣の神学博士であり、宣教師として明治学院の事務長を務めながら、教授として英語・ギリシア語・心理学などを教えた。この本は1880年の横浜でのMeiklejohnやKellyの初版、1884年に東林堂、1887年に辻本、1888年に小川、さらに丸善(ZP.Maruya)に移って80ページを増やし1908年の再訂5版まででており、教科書として広く用いられた。アーカイブは明治学院教科書の蔵書票のある辻本本である。
William Imbrie "Wa and Ga" 東京教文館 Tokyo 1914年(大正3)
『「が」と「は」の正しい使い方は日本語のパズルの一つである』で始まるこの論文は、来日以来30年間の構想と小論文をもとに、日本語学校の学生のために書かれたものである。英文での論文は左開きに50ページまで書かれ、その内容に含まれる日本語例文は巻末よりAppendixに続いて、縦書きで右開きに33ページ書かれて、奥付が和文と英文との間の本の真ん中についているという形態をとる。
(2)英語教育の部
ここに記された教授方法はS.R.Brown が幕府横浜運上所の英学所や、その後の新潟英語学校・横浜修文館・ブラウン塾で用いた方法である。文章の基本形をいくつか覚え、それに次々と語数を増やして文章を長くしていき、Oral Methodにより訓練・学習を進める現代にも通じる基本的な方式である。それまでの英語学習の主流は素読・会読・輪講の訳読教授法では「読めるが話せない」ことも多く、また聞き覚えの会話では英語を書けないことが多い中にあって、特筆すべき教授法である。1872年(明治5)には学制が発布されて、米国人教師により英語学習方法の改良が進められていくが、出版にはこの様な時代情勢も反映されていよう。
1878年(明治11)J.H. Ballahは横浜に先志学校を開設し、ワイコフが1881年(明治14)より引き継いだ。この学校は1883年(明治16)にはヘボン塾の後身築地大学校と統合され東京一致英和学校となり、1888年(明治19)年4月に東京一致神学校等とともに明治学院へと発展した。この本は明治学院で使われたワイコフ著の英語教科書である。明治学院にはWykoff賞という英会話賞があった。