明治学院の人々の聖書和訳への挑戦
各派共同での聖書翻訳に留まらず、明治学院の人々はいろいろな日本初めての試みをしている。
1875年(明治8) カロザース『略解新約聖書馬太(マタイ)伝・馬可(マルコ)伝』
第一巻が12月、第二巻が翌1876年に刊行された。嘉魯日耳士(カラゾルス)発行であるが、実質翻訳編集は加藤九郎であり、日本人信徒が行った初の聖書翻訳である。
1881年(明治14)井深梶之助『新約聖書馬可伝 俗話』
口語への初めての翻訳を行った聖書であり、言文一致体での試みである。東京一致神学校教授のアメルマン博士が井深梶之助に依頼し、明治元訳を基本とした翻訳である。
「みな食べるときに、イエスはパンをとって祝し、それをさいて、お弟子たちにあたへておふせられますには、とってたべよ。これは、わが身(からだ)である。また杯(さかずき)をとって謝し、おあたへなされましたれば、みなその杯から飲みました」14章22-23節
この訳は1903年(明治36)にも刊行され、1915年(大正4)には16版を重ねるなど広く読まれた。
1928年(昭和3)永井直治『新契約聖書』
永井直治は明治学院神学部を1890年に卒業後すぐに日本基督教会浅草教会牧師となった。
20年以上に渡りギリシア語研究を行い、1550年にロベルト・ステハヌスが出版したギリシア語聖書をFスクリブナー1872年出版の本から語を追って直訳し、ステハヌス以後のギリシア語聖書修正や変化を含め一冊とした聖書である。初版の序文で内村鑑三は「君は日本人として聖書の日本化の最初の試みを為したのである」としているが、英訳聖書・漢訳聖書・和訳聖書の影響を受けず、日本人単独でギリシア語原典からのみ翻訳した聖書として特筆され、いまもギリシア語聖書の研究には参照されている。なお、この聖書は1932年(昭和7)の第3版まで改訂され、戦後は1977年(昭和52)の修正改版まで発行されている。
1952(昭和27)渡瀬主一郎・武藤富男『新約聖書(口語)』キリスト新聞社
賀川豊彦はギリシア語原典に忠実で誰もが読んでわかる聖書をめざし、ギリシア語聖書を研究する渡瀬主一郎と武藤富男(のちに明治学院学院長)に命じて、1951年(昭和26)から現代日本語としてわかりやすく品位を保ち朗読に適する表現をめざし、1952年(昭和27)10月に完成した。
校閲には佐波亙(日本基督教会元老)・友井楨(前日本基督教団総主事)・金井為一郎(日本聖書神学校校長)・村尾昇一(日本聖公会主教)・高柳伊三郎(青山学院教授)・村岡花子(作家)による。