『和英語林集成』の偽版
辞書の歴史には借用と剽窃が多いという。偽版としての翻刻も多い。
ヘボンも『和英語林集成』の初版発行に際して、1万ドル(現在の1億円)以上の費用がかり、その費用の調達に苦しみ、幕府に願い出て版権を認めてもらうこととなった。
しかし、幕府がくずれると、影響力の大きい比類のない辞書であったが故に、過熱する英語学習熱の中で、新しく増補や校正を加えとしながらも、ほとんどが借用と剽窃の辞書が登場する。さらに、明治中期となると明らかな偽版が出現する。
▽『A POCKET EDITION/OF/JAPANESE EQUIVALENTS/FOR THE/MOST COMMON ENGLISH WORDS』
『芝芝居町松本孝助版』
TOKEI :PRINTED BY MATSUMOTO ,SHIBA SHIBAICHO
芝芝居町の松本孝助が出版した小型版の英和辞書である。発行地をTOKEIとしており明治初期の出版であろう。内容を検証すると、『和英語林集成』の英和の部と『英和対訳袖珍辞書』の単語から寄せ集めた構成であることは容易に見て取れる。
この辞書のPrefaceには次のように記されている。
Owing to the increasing number of English Japanese students and also the want of a practical pocket dictionary
of the English & Japanese language it has been decided upon to publish this book. It ows its composition to
the
valuable and useful dictionary of Dr, Hepburn; and contains in addition 500 new words and some other
alternations as regards the equivalent value of the words as given by Dr. Hepburn. There is no doubt that this
edition by his useful size and cheap price will be gladly received , and contribute to the facilities now
existing for the Japanese students to learn the English language. This book, is published by the consent of Dr.
Hepburn.
ヘボン辞書に500語を加え、ヘボン博士の了承の下に出版されたという2点であるが、この点については香川大学教授竹中龍範「もうひとつのヘボン字書」(英学史論叢第2号1999.10
日本英学史学会広島支部)に詳しく、竹中教授は初版を基礎にして約340語程度を加えたものであり、本当にヘボン博士の了承を得たものであるかは状況証拠ではあるが疑わしいとしている。
▽『浅解英和辞林』
『浅解英和辞林』表題紙
内田晋斎1871年(明治4)東京蔵田氏蔵鐫)
これは、『英和対訳袖珍辞書』の活字と印刷機を使い、日本語は本木昌造の活字を使って印刷したものである。
しかし、豊田實氏は『日本英学史の研究』の中で<ヘボン辞書に「増補校正ヲ加へ更二邦語を邦字ニ改メ」とあるのは「邦語ヲ記スルニ西字ヲ以テシ」てあった、すなわちローマ字をもってしてあったのをかたかなに書き改めたことをさすものである。訳語はヘボン辞書そのままではないが、その類似は、はなはだしく、序文には増補とあるけれども、英語の語彙はかえってこの方が少ないようであり、要するにこの辞書はヘボン辞書の焼き直しであり、石井研堂氏が前記の文中(注:『明治事物起源』)でこの辞書について「平文氏より版権侵害を申し込まれしが如しといふ」としるされているのをみては、なるほどと思われるくらいである>としている。
▽『米国平文先生編譯/和英語林集成』
大阪日盛館蔵版
1887年(明治20) 大阪日盛館蔵版
これは『和英語林集成』初版の偽版である。明治20年3月26日翻刻御届 同年10月15日再版御届 となっており、2回発行されている。売さばき所は大阪で3カ所、関東の売さばき所は日本橋区横山町3丁目2番地
辻岡文助とあり、東京でも売られていたことがわかる。
この当時著作権法はまだ成立してはいない。版権は出版条例により日本人には与えられているが、明治政府は外国人には条約改正のテコとしたかったようで、版権を与えなかった。
このような状況が、同年ヘボンが第3版の版権を丸善に譲渡した背景ともいわれている。
内容は写真製版ではなく、再度組んだもののように見える。ページ進行は同じである
▽『米国博士ヘボン氏著/和英小字典/第一板翻刻』
東洋堂發兌
1891年(明治24)東洋堂發兌
これは『和英語林集成』のニューヨーク版の偽版である。ニューヨーク版が10.5×15.5cmであるのに比べ21.4×15.5cmと大きい。新しく組んであるがページ進行は同じである。このため単語と単語の間の空白が多くなり、少し間の抜けた印象を覚える。表紙は青みの入った灰色の紙装である。
明治24年11月21日印刷 同10月22日翻刻となっており、京都下京区四条上ルの田中治兵衛を大売捌所として、他の売捌所は東京大倉・京都大黒屋・大阪梅原となっている。
このように一気に偽版が出るのも、明治20年頃には印刷術が発達して、製版に大きな資本が必要でなくなったと言う背景もあろう。しかし、発行して20年以上立ち、改訂が3度に渡っている辞書の初版が偽版を製造して売れるだけの価値があったというのも驚きである。