ヘボン辞書は我国著作権請求の初めて
1867年(慶應3)ヘボンは『和英語林集成』1200部を上海で印刷し横浜で発行した。この発行にあたり、1867年4月アメリカ公使館書記Portmanは外国奉行宛に海賊版の発行を差し止めて欲しいとの書簡を送り、老中は海軍奉行・陸軍奉行・開成所頭取宛に翻刻願出を却下するよう通達を出している。これは日本初の版権を求めての外国人による願い出と思われる。(資料1)
その後、明治となり江戸幕府の布令の効果がなくなると、ヘボンはやはり偽版類版などの出没に悩まされたようである。このころ同じく福沢諭吉は自書の本を重版されたとして開成学校に抗議に行っている。
1871年(明治4)に東京蔵田氏が出版した『浅解英和辞林』などは、石井研堂氏の『明治事物起源』によれば、「平文の辞書の日本語のローマ字綴りなるを、かなに書き改めしものにて、平文氏より版権侵害の故障を申込まれしといふように聞きて居ると、蔵田の嗣子某氏の話なり」といわれ、豊田実氏も『日本英学史の研究』の中で「訳語はヘボン辞書そのままではないが、其の類似甚だしく、序文には増補とあるけれども、英語の語彙は却ってこの方が少ないようであり、要するにこの辞書はヘボン辞書英和の部の焼き直しであり」と書いている。
ヘボンはさらに1872年(明治5)の『和英語林集成』の再版の出版にあたり文部省のモルレーに相談したため、モルレーは省内で提議を行ったが、当時はまだ著作権や特許権などの知的財産権に対する理解はなく、エンサイクロペディア・ブリタニカの記述によって理解を得たと、高橋是清が明治44年9月24日東京朝日新聞のヘボン博士追悼記事で述べている。
出版業者間の制裁で実行してきた「重版の禁」は、その後、本学始祖の一人フルベッキ(Verbeck, Guido Herman Fridolin, 1830 -
1898)の助言により明治2年始めて出版条例が発布されるが、版権は不備であり、1875(明治8)新聞紙条例や讒謗律時を同じくして出版条例が改正され版権付与、1887年(明治20)12月に版権条例、1899年(明治32)に始めて著作権法が公布となる。
この間条約改正問題にあたり、明治政府は外国人の著作権や特許権の付与を条約改正への足がかりの一つとしたようである。
このデジタルアーカイブスでは縮約ニューヨーク版の偽版である「東洋堂版」および再版の偽版である「日盛館版」をアーカイブスにとりいれた。『浅解英和辞林』は当館ではマイクロフィルムで所蔵している。
資料1『続通信全覧』類輯(るいしゅう)之部 三二、外務省外交史料館蔵(要掲載許可)
米国医へボルン著日英對譯辞書翻刻禁止請求一件 自丁卯四月至同五月
――――江戸外国奉行あて信書―――
十九号
千八百六十七年第五月三十一日於江戸合衆國使臣館
江戸にある
外國奉行閣下に呈す
余次條を閣下へ報告し御老中へ傳報あらん事を乞ふ神奈川開港以来同所へ居留せる有名の亜米利加人ドクトル ジ、シー、ヘボルン専ら英語日本語對譯辞書編集の事を務め今其卒業の期に至れり
この辞書は上海にて刊行し第一板千貳百部を製本し両三週中には發賣すへし
ドクトルヘボルン氏はこの書を賣り其利を占むるの素志にあらすと雖も許多の日本人この書を珍重するより直に翻刻に及べる事に至らば同人第一板の入費を償ふ事を得す不貲の損失を受くべし
此辞書は日本の為大裨益をなすべき書なれは第一板の世話日本政府にて周旋し玉ふに些少の不都合もあるましと余之を信せり閣下之を賢考ありて然りとせは両三日の中其事に付余と共に其處置を議し玉ふへし其節余この辞書を尊覧に備へん事を望めり謹言
ア、ル、セ、ポルトメン手記
――――外国奉行から老中あて―――
亜國書記官より差出候書翰の儀に付申上候書付
外國奉行
今般亜國書記官ポルトメンより私共宛書翰壱封差出候間反譯一覧仕候處此度同國醫師ヘボルン編集仕候英和對譯辞書の儀に付云々申立且右の儀に付私共へ面唔仕度段申越候間近江守不取扱罷越及引合候處右辞書製本の分千貳百部近々発売仕候積りに付若右を御國人於いて翻刻仕候様にては編集者の損失不少儀に付右部数賣切候迄は翻刻の儀堅く御禁止被下度旨申立候右者一應尤の次第にも有之候間別紙開成所頭取への御書取業相添此段申上候以上
――――老中の決定と通達―――
塚原但馬守
江連加賀守
石野筑前守
川勝近江守
本文英和辞書の儀はホルトメンより云々申出候趣も有之謂れなき儀をも不相聞候間御聞届翻刻御禁絶相成候儀は無御據御所置を奉存候得共外一般の西洋書籍反刻の儀は別段其都度其國公使へ御問合相成候にも及申間敷哉に被存一体西洋各國おゐて一派の工技を新に発明いたし候節他國於て右工技を始て相学施行いたし候者は其発明は同様褒賞を受候哉にて書籍反刻の儀も其著述者の本國にては相禁候哉に候得共他國の者まて差構候儀者承り不申尤後来御國人おゐて洋書翻刻いたし候上萬一彼著述者等之儀論相招き候はゝ格別先つ夫迄は外洋書反刻の儀は是迄の通被据置可然哉奉存知候
覚
別紙達業の通相達候似事
海軍奉行並
陸軍奉行並
開成所頭取
覚
今般亜國醫師へルボン編集いたし候英和對譯辞書翻刻の儀願出候者有之候共右者彼方より申立候趣も有之候間聞濟申間敷候事
資料2「嗚呼ヘボン先生」高橋是清日銀総裁の追懐 東京朝日新聞1911年(明治44)9月24日第5面記事
▲ 英和対譯辞書の嚆矢
先生は岸田氏の助力を得て英和及和英の辞書を編纂し之を上海にて出版し以って大に邦人の英語研究に便宜を与えられた所謂ヘボン辞書と呼ばれて大に重宝がられたのは此書である、是が多分我邦に於ける英語辞書の嚆矢であらう
▲ 特許法の制定
明治七八年の頃余が文部省にありたる当時先生はヘボン辞書を再版するに当り之が版権を得たき旨を同省のモルレー氏に懇談せられ同氏は之を同省に提議した。然るに当時我邦には出版又は特許に関する規程なきは勿論之を制定するの必要不必要も薩張り解らなかった。そこで余は政府の命に依って其の調査に取り掛ったが文部省にも図書館にも一冊の参考書がない。大英百科辞典により辛くも其性質を会得した滑稽な騒ぎで他日余が農商務省に転じて特許に関する法令を制定する事となった、是れもヘボン博士に因ある物語である。